全て導きは聖霊による。そのために、私たちはどうしたいいのか。
「キリストに出会った村人」と言うテーマでお話しします。
ルカによる福音書24章26節~
この話は、イエスが十字架につけられた、3日後のことです。
二人の若者がエルサレムからエマオという村に帰る途中これまでの事を話していると
イエスが近づき何を話してるのかお尋ねになりました。
クレオパという若者は、その人がエルサレムで起こったことを知らないことに驚きました
そして、19節「ナザレ人イエスのことです」から的確に脈々と語ったのです。
でも二人を始め多くの人は、イエスが蘇ったことなんて信じてないんです
現実に十字架にかけられ処刑された人が、蘇るなんてありえないことです。
女たちがイエスの墓に行くと、石がよけてあり何もありませんでした
そこに、み使いが現れ「ここには居ません、甦えられました」と告げ
そのことを弟子たちに伝えたのに、だれも女たちの言うことを誰も信じない
信じないどころか「私たちを驚かせた」(あいつらはバカな事をいってる)
とまで言ってます。
とまで言ってます。
そこでイエスは嘆かれました
25節「ああ、愚かなひとたち。預言者たちの言った全てを信じない、心の鈍い人たち。」
そこでイエスはいきなり彼らに聖書学校を始めました!
モーセから始まり聖書全体から、イエスのことを示されているのだ。と教えました。
驚いた二人は、まだイエスの話が終わってなかったので
(先に行こうとしていたので」)
無理に願って我が家に迎えました
このままこの人の話を途中で終わるなんてもったいない!と思ったのでしょうか
この無理にという言葉は、強引にというニュアンスを含んでます
イエスに出会うためには、聖霊に満たされるには
無理にでも願わないと駄目なんです
強引に願って祈り、交わりを持つことが、今大切なんです
聖書の意味は、ただ読んでもわからない
そこには聖霊様の導きがなければ、
たとえ今イエス様がそばに来て、あなたに声をかけても
聖霊によって目が開かれてないと、この若者のように気がつかないのです
毎日の生活で祈って静まること、聖書を読むことです。
そして大切なことは、無理にイエス様におねだりすることです。
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