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2020年7月25日土曜日

「幼子のように」3月8日聖日礼拝より

奨励「幼子のように」

メッセージ:澁澤道忠牧師

聖書は、ヨハネの福音書 20章24節~29節から「幼子のように」です。

誰でも一度はイエスに出会う時がある。
もちろん2000年も前に十字架で死刑にされたイエスさまに、
同級生や職場の仲間に出会うようにではありません。
私の場合は、育った環境がクリスチャンホームでしたので
いつも聖書の話、イエス様の話がありました。
でも、イエスさまに出会えた!と感じるのは、
実は最近のことかもしれません(笑)

さて、聖書のお話の中に出てくる、トマスさん
死んだ人がよみがえるなんて、私は信じません!と言い切りました
でもそれはごく普通の、当たり前な反応です。

そんな私たちにイエスさまは
「わたしを見たから信じたのですか?」とやさしく語ってくださいます。
あなたはイエスさまに出会ったのでしょうか
もしかしたらもう出会ったのかも知れませんね。


2020年6月29日月曜日

3月1日の礼拝より「キリストのめぐみ」

奨励「キリストのめぐみ」


ヨハネの福音書2章1節〜12節

31日の礼拝は、カナの婚礼から「キリストのめぐみ」でした。
ビデオの担当者がカメラを忘れてきたため、音声のみですごめんなさい(^^;)
 
カナの婚礼に関しては、みなさんご存知のお話だと思いますが
簡単に説明します
カナという街で、大きな結婚式があり、イエスさまたちも結婚式に招かれていました。
イエスさまのお母様もその場に居て、婚礼を影で支えていたらしのです。

結婚式が始まり、終始順調に行われていたのですが、
途中でお客様に出すぶどう酒が無くなってしまいました。

お母様はイエスさまに「ぶどう酒がありません」と告げました
するとイエスさまは「あなたと私はなんの関係があるのです」と言いますが
イエスさまはその場にあった大きな水瓶に水を入れさせ
それをおいしいぶどう酒に変えてしまいました!
それを見ていた弟子たちは驚いてしまいました
弟子たちは、それでイエスさまが神の子だと信じたのだそうです。

私たちはイエスさまに出会う前は、どこにでもある、ただの水でした。
もしかしたら、良くない水だったかも知れません
でもキリスト・イエスさまのめぐみによって、
私もあなたも、あなた達も新しく作り変えられる事ができます。
どのように作り変えられるのでしょう
イエスさまはただの水を、誰からも喜ばれる「よいぶどう酒」に変えられました。



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岐阜神愛キリスト教会では
毎週日曜日
午前10時30分~聖日礼拝
毎月第2・第4日曜日
午前9時50分~こどものための聖書学校
が行われています。
501-6002
岐阜県 羽島郡岐南町 三宅2-121
058-245-0361
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2020年5月11日月曜日

「愛がなければ」2月23日


「愛がなければ」

1コリント13章1節~13節

愛についてのお話をします。

これはコリントの地方にいる人たちに宛てた、パウロという人の手紙です。
その中に愛とはどういうものかという事が書いてありますので、読んでいきましょう。
13章の1節から3節には、切々と人がどんなに立派な行いをしても、愛がなければ意味のない事だと書いてあります。
「わたしに預言をする力があり、山を移すほどの強い信仰があっても
もし愛がなければ、わたしは無に等しい。」
わたしには山を動かすほどの信仰もへったくれもありませんので、それはそれで凄いことだと思うのですが、そんなものは無意味だと切り捨てていきます(笑)
4節からは、愛とはこういうことなんだよと書いてあります。
ただ凄いことが書いてありますが、ここも私に置き換えますと、わたしにはとてもとてもこの様な「愛」は手が届かない、まさに理想です。
結論に、最後まで残るのは「信仰と希望と愛、その中でいちばん大切なのは、愛です」と書いてあります。

なんて立派なことが書いてあるのだろう。と思いませんか?
実はこれ、人間の愛は・・・と言ってるのではありません
「神は愛です」と聖書に書いてあるように、神の愛はこう言う事ですよ!と説明しているのですね。
「わたしの財産を誰かにすべて施しても、神様の愛がなければ虚しい」このように読むとなるほどと思います。
「愛は寛容であり、愛は情け深い」=「神様の愛は寛容であり、神様の愛は情け深い」

例えば、神様の愛。これは太陽の光のようなものです。わたしたちや信仰を持った人持たない人にかかわらず、常に降り注いでします。
神様は、一部の特定の人や、正しい人にだけ恵みを注いでる。そんなものではありません。正しい人にも悪い人にも同じように恵みは(愛は)降り注がれているのです。
問題はその光を仰ぎ見ることが出来るかどうかです。両手を広げて恵みを受けるのか、行いに恥じて身を隠すのか。
さらに極端に言いますと、わたしたち人間にはこの様な愛は元から無いのです。
愛は、神様から頂くもの、おすそ分けしてもらうような事なのです。

世の中を見てみましょう

まぁよくも悲しいことばかり起こるものだと思ってしまいます。
でも、考えてみてください。あなたの知っている悲しいニュースは、もしそこに神様の愛があったならどのような結果になっていたでしょう。
そんな立派な愛でなくても、十分の一でも小さな愛があったのなら悲しいことは起こるでしょうか。本当に私たちには愛がない。だからこそ、今こそ主を仰ぎ見るべき時なのです。

教会ってどんなところ?


教会では、牧師を通して神様の言葉が語られます。悩みのある人はもちろんの事、いつでもおいでください。ブログでは、教会の案内やメッセージの動画を提供していますので、ぜひご覧ください。



2020年5月9日土曜日

「心を満たすもの」2月16日

「心を満たすもの」

マルコの福音書 8章1節~10節

今日は、4,000人の群衆に7つのパンと魚を分け与えた奇跡のお話です。
人々(群衆)はイエスさまの所に集まって、3日間福音を聞いていたのでしょう
聖書の中に出てくる群衆 特にイエス様の所に集まってくる人々は、貧乏だったり病人だったり
とにかく情けない人々が集まってきます。
イエスさまはよくその人々を「飼い主のいない羊の群れ」と表現し、ともて哀れんでいます。

いずれ3日間も何も食べずにいた群衆 もいかしたらイエスさまもお腹が空いてたのかもしれませんね!
弟子たちに、この人達になにか食べ物を与えなさいと言います。
弟子たちは「無理です!」と即答ですね(笑)実際その場所は近くにパン屋もないような所
たとえ有ったとしても、急に4000人分の食事を用意できるなんて、現代でもそうありません。

そこでイエスさまは、パンはどのくらいあるのか確認させますと7つありました。
多分これは、子どもが持っていたお弁当のパンなのですが
不思議ですね?よくここまで食べずに取っておいてあったと思うのです。

ここからが大切なお話です
イエスさまはパンを取り感謝の祈りを捧げています
そしてパンを裂いてみんなに配り始めますが、ちぎってもちぎっても無くならないパン
魚も同じように分け与え、みんな食べて満腹します。
さて、そんな事あるでしょうか!
物理的に不可能ですが、神様には出来るのです。

信じるということはどう言う事なのでしょうか

使徒信条に「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」とありますね
聖書には、人にはできないことも神には出来ると書いてあります。
4000の群衆、5000の群衆にパンを分け与えたとき、
全能の父なる神を信じていたのはイエスさまただ一人だったのです。

私たちは父なる神に祈ったり、信仰告白をいていますが
はたして神を信じているのでしょうか。
今日私たちはお腹が空いていませんか?
お腹が空いていると、どうでしょう元気が出ませんね(笑)
お腹に食べものが入ると、心も強くなるのです。心が満たされる状態です。

イエスさまは言います。

私に来るものは、いのちのパンを与える。
私が与える水は、決して渇くことがない。
ただ無条件でもらえるものではありません
「私に来るものは」来るとは信じること。信仰を持つことが必要なのですね!
天地を造られた全能の神はイエスさまの事なんです
そのイエスさまに一生懸命お願いすること、それが祈るという事です。

私たちは何者でしょうか

もしかしたら飼う者のない弱った羊の群れではないでしょうか
不安や貧困、不満や嫉妬に捕らわれてないでしょうか
もしそうだとしたのなら、今新しくなりましょう
ご飯を食べて元気になるように
イエスさまの言葉を頂いて、お腹いっぱいになりましょう!




2020年4月15日水曜日

「あなたは一人ではない」2月2日の礼拝より

遅くなりましたが2月2日に行われた礼拝より

「あなたは一人ではない」です。

聖書は ヨハネの福音書 14章1節~4節
メッセンジャーは澁澤清子先生です。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。 神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。 もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。 あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、 また来て、あなたがたをわたしのおとに迎えます。 わたしのいる所に、あなたがたもおらせるためです。 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」



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2020年2月26日水曜日

「わたしは いのちのパンです」ヨハネの福音書6章34節


奨励「わたしは いのちのパンです」


ヨハネの福音書6章34節

道忠先生が入院したため、清子先生のメッセージとなりました 聖書は、ヨハネの福音書6章34節から、いのちのパンについてのお話です ビデオの前半は岐阜神愛キリスト伝道所のことをお話します。 先生は「汝ら我をえらびしにあらず 我、汝らを選べり」(ヨハネ15章16節) との御言葉を頂き牧師の道に入りました。 当時は文語訳と言う聖書ですので、この様な言い回しになっていますが 今どきの言葉ですと 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」  となるのですね(^^) 少しわかりにくい言い回しですが、文語訳は
好きです。

さて、「いのちのパン」とはなんでしょうか

旧約聖書の中に エジプトからモーセがイスラエルの人々を連れ出すお話があります(出エジプト記) エジプトを出た民族は、食べ物がなくなりました モーセが神に祈ると、天から「マナ」と呼ばれるパンが降ってきました。 また、イエス様が人々に聖書のお話をしていた時 5つのパンを裂き、5000人の人々に分け与えました。 いのちのパンとは、それらのような物質的なパンではありません。 物質的なパンは、いずれお腹が空きますが 神の口から出る御言葉(パン)は尽きることがありません 人を、心を育てるパンの事なのです。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」

聖書の言葉に「信仰と希望と愛」があります。 もし私たちが、食事のパンだけで生きているのなら 水槽の金魚と同じではありませんか? 信仰と希望と愛があれば、どれほど素敵な生活になるでしょう どんなに美味しいごはんを食べても どんなにお金を持っていても どれほど豪華なお部屋に住んでいても それがなければ虚しくないですか? 逆に、 例え「ごま塩のおにぎり1個」でも 財布の中身が100円しかなくても イエス様を信じれるのなら、 信仰と希望と愛があるのならOKじゃないでしょうか(笑) 清子先生にとってのいのちのパンは 「汝ら我をえらびしにあらず 我、汝らを選べり」だったのですね! メッセージは続きます どうぞお時間の許す限り動画をご覧ください。 そして、きっとあなたも イエス様のくださる「いのちのパン」を受け取ってくださいね(^^)



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2020年2月10日月曜日

「人は草の花のようだ」1月19日聖日礼拝より

「人は草の花のようだ」

ヨハネの福音書の8章51節~59

聖書が手元にある方はちょっと開いて、8章の最初から読んでみるといいでしょう。
ここには、イエス様とユダヤ人たちとの、掛け合いと言うか論争が書かれています。

ユダヤ人社会の中で、イエス様はちょっと特殊な人
彼らにすると、ぽっと出の田舎の若者で、
数々の奇跡を起こし、神学についてもやたら詳しい
しかも民衆の人気を一気に持っていっている
ユダヤ人はどうにかして、彼の首根っこを押さえつけようとしています。

51節からはその最後の場面が書かれています。
まるでユダヤ人を煽るようにイエス様はいいます
「だれでもわたしの言葉を守るならば、その人は決して死なない」
命ある限り死は免れませんので、ユダヤ人たちは反発します
さらにイエス様は
「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」
アブラハムとはユダヤ人たちのご先祖様で、とても尊敬されている人物です
それをそんなふうに言われたのだからたまりません
彼らの法律によるところの「石打ちの刑」にしようとしましたが
イエス様は身を隠して、宮から出ていかれました。

と、ここで問題です。
イエス様は「身を隠して宮から出ていかれた」
なんだか小さくコソコソっと逃げるように出ていった感じしますね!
ところが原文では「真ん中を堂々と出ていった」か描いてあるのです。

動画のメッセージではこの他にも様々なお話がされています。
お時間の許す限りご覧になってはいかがでしょう(^^)
また、録画されたものではなくライブのメッセージも素敵ですので
是非お近くの教会に起こしください。

きっと素敵な時間を過ごされることを心から祈ってます。



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2020年2月3日月曜日

「幸せいっぱいの新年」1月12日

「幸せいっぱいの新年」


マタイ53節~12

今日のお話は、「幸せいっぱいの新年」というテーマです。
イエス様が小高い山に登って人々に教えている場面です
何を語ったのでしょうか、聖書に聞いてみましょう。

イエス様は言いました

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されいる者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

まだ続きますが、お気づきでしょう

何度も「幸いです」と言っています。

幸いと言うのは日本語ですが、イエス様は日本語ではなかったので
意味合いがちょっと違うみたいです
ギリシャ語ではマカリオイ(μακάριοι)と言う言葉
英語からの日本語訳では「神様に祝福されてもの」そんな感じです
さらに挨拶文のような、声をかけるようなニュアンスがあるらしいので
「心の貧しいものは幸いです。」と書かれていますが
原文の順番に書いてみると
「幸いだね!心の貧しい人は」と、こんな感じ 
「幸いだね!悲しんでいる人は」こんな風に書いてみると
なんかイエス様の印象がずっと近くに感じます。

幸せを感じるときはどんな時でしょう

私が幸せだなと感じるのは、とても小さなことですが
妻が作ってくれたお弁当が、唐揚げだったときとか(笑)
唐揚げも好物なので、感謝なことなのですが
それを作るのに、妻がわざわざ揚げ物をしてくれたこと。
とっても幸せな気持ちになりますね!

では不幸なことって、幸せじゃないことってどんだけあるのでしょう
世の中、ニュースとか見ると不幸だらけです
私にも辛いことくらいありますし、不平も言います
そんな時、幸せの唐揚げなんてすっと消えちゃいそうになります。
でもそれでいいのでしょうか
感謝をすること。小さな幸せを守ること。
不幸や暗闇に耐えることは、難しいことかもしれません
でも主に信頼して小さな幸せを守るなら
きっと不幸に負けることはないはずです。

暗闇の中の小さな明かりは、

たとえ小さくても闇に負けることはありません。

神様を信じることって、そういう事かもしれないな。と思います。
生きていく時に、辛くて辛くて仕方ないとき
だれにも慰めてもらえない そんなとき
もしあなたにイエス様が居るのなら、
その人たちは、慰められる。地を受け継ぐ。満ち足りる。
そう聖書に書いてあるんですよ(^^)

もしあなたが暗闇の中を歩いているのなら
イエス様に出会うことをお勧めします。

そのチャンスが、いま来ているのですから。


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2020年1月20日月曜日

「ヨブの忍耐」1月5日聖日礼拝より

奨励「ヨブの忍耐」

ヤコブ5章7節~11節

最後まで耐え忍ぶものは救われます。マタイによる福音書10章22節


旧約聖書にヨブという人が出てきます
彼の生き方から、私たちの生活を学んでいこうと思います。

ますヨブという人についてですが
聖書によると物凄く神様に祝福された人でした。
ある時、神様の前にサタンが来てヨブについて話します。
「彼が神を恐れるのはあなたが祝福されているからでしょう
財産がなくなったらあっさり裏切るでしょうね。」
そこで神様はサタンにヨブを試すことを許されます。


彼に災難が次々と降りかかります。

<旧約聖書のヨブ記113節以降>
財産はなくなり息子娘たちまで死んでしまいます
ところがヨブは神に失望したり、裏切ることはありません
それよりも、自分の存在を呪ったのです。
最後まで耐え忍んだヨブは、後に今までより多くの祝福を受けます。


さて、私たちにも我慢ならないようなことは次々に起こります
神様を信じているのに、ちゃんと献金しているのに
なにも悪いことをしてないのにどうして!
天罰が落ちたのでしょうか?
はたして天罰ということがあるでしょうか?

私たちの神様は正しいものを滅ぼすことはありません
むしろ「神は愛なり」と言うほどに、私たちを守ってくれるのが神様です。
私たちが、悩み、苦しみの中にある時に、
いつでも共にいて支えてくれるのが私たちの神様です。
<ただ、悪いものには容赦しないのも神様です。>

創世記にソドムという町が出てきます

その町の人たちが罪深すぎたので神様は町ごと滅ぼそうとします。
ところがアブラハムという人が神様と語ります
「もしその町に50人の正しい人がいたらその町を滅ぼすのでしょうか?」
神様はその50人のためにその町を滅ぼすのはやめようと言います。

アブラハムは交渉を続けます「50人に5人足りなかったら?」
神様は、その45人のために滅ぼすのはやめようと言います。

アブラハムには45人の正しい人がいる確信が持てず
40人30人20人と交渉を続け、最後には10人まで人数を減らすと
神様は「その10人のためにその町を滅ぼすのは止めよう」と言って立ち去ります。

神様に交渉するアブラハムもすごいですが
忍耐強いのはむしろ神様の方です。
主は、あわれみ深く、情け深い。
怒るのにおそく、恵み豊かである。
と詩篇103篇に書いてあります。
ソドムの町ですか?結局滅ぼされてしまいました(^^)

キーワードに、最後まで耐え忍ぶものは救われます。とあります
「耐え忍ぶ」・・・簡単にいうと
何があっても必ず救われると、神様を信じて、我慢して我慢して我慢するのです。
神様は必ず助けてださいます。
そう信じて今年一年そのような信仰を持っていきましょう!

このような文章を、忍耐強く読んでいただいた皆様に
神様の祝福が豊かに注がれることを、心よりお祈り申し上げます。






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2020年1月16日木曜日

「ステパノの殉教」1月1日礼拝より

「ステパノの殉教」

まずステパノという人についてちょっとだけ説明します
新約聖書の最初のほう。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書はイエス様のお話が書いてあります。
次にくる使徒の働き(使徒行伝)はイエス様が天に帰ってからの話が続いています。
その使徒の働きのなか、最初の方(6章)にステパノの名前が出てきます。
彼は最初の頃の教会で、熱心な働きをしていました。ところが各方面に敵を作ってしまい、ついには石打ちの刑で殺されてしまいます。ステパノはキリスト教史上最初の殉教者になってしまいました。
ステパノが民衆に石打ちの刑に処せられた時、サウロという青年が近くにいました。彼もステパノの刑には賛成していたのですが、サウロは後のパウロとなってイエス様の福音のため活躍する人物になっていきます。


「神の言葉を余すところなく伝えるためです。」

上記が今年の標語です
ただ、この部分だけですと意味がよく伝わらないので補足します
(コロサイ124節~25節)

24)ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストのからだのために、私の身をもって、
キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
キリストのからだとは教会のことです。
25)私は、あなたがたのために神からゆだねられた勤めに従って、
教会に仕える者となりました。
神のことばを、余すところなく伝えるためです。

大切なのは、「キリストの苦しみの欠けたところ」です。ちょっと難しい日本語ですね。
あなたがたはキリストの名のもとに苦しめられる。とイエス様は時々言ってます。

イエス様は当時のユダヤ人から妬まれていました。
なぜでしょう。イエス様はぽっと出の若造でした
そのような者が、聖書には詳しいし、数々の奇跡も起こしてしまう。
だれも彼を言い負かす事が出来ない。我慢ならない存在だったのです
だから彼を十字架につけて殺したのです。すべては妬みから起こった行動でした。
そのキリストを信じた人々も同じ様に
ユダヤ人から憎まれたり妬まれてしまいました。(ステパノもその一人です)

では、なぜそういう苦しみを受ける時イエス様が直々に助けてくれないのだろう。
本当の神様だったらできるだろう。奇跡を起こしてみろ!自分を救え!
それは出来ません。
これが欠けたところです。殉教者に限らず、教会では様々な問題を抱えます。
お金が無い駐車場がない、病気や怪我をしてしまって礼拝に出られない(笑)

そういう欠けたところを、みんなで補っているのです。

何のためかというと、神の言葉を余すところなく伝えるためです。とつながるわけですね。
ですので、当教会の数々の悩み
それらは信徒である皆さんが犠牲を払って補っている
何のためでしょうか
教会のためキリスト、イエス様のため。
それは「神の言葉を余すところなく伝えるため。」です

みんなが伝道者じゃないです。
でもみなさんが欠けたるところを補う事によってキリストを証しする事になるのです。

今日が2020年元旦です
今年一年の標語は「神の言葉を余すところなく伝えるためです。」
キリストと主に歩くと決めたこの日を祝おうではありませんか!
今年一年がみなさんにとって良い年であることを祈ります。 



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2020年1月7日火曜日

「すべての事に感謝せよ」マタイによる福音書25章19節~23節

2019年最後の礼拝です
マタイによる福音書2519節~23節から

「すべての事に感謝せよ」というテーマでお話します。


マタイによる福音書では、3人のしもべが出てきます
彼らの主人がたびに出る時、財産の一部を預けます
ある人は5タラント、ある人は2タラント、またある人は1タラントです。
2タラント5タラントを預かった人たちはそれぞれ、
そのお金を資本に仕事をします。
帰ってきた主人にそれらを報告すると
金額の多い少ないに関わらず「よくやった忠実なしもべよ」と褒められます。
彼らは小さなことに忠実だったので、
「更に多くの財産を管理させよう」と主人からの信頼を得ました。

タラントとは私たちに与えられた能力の事です

ある人には優秀な計算能力や発明だの開発に十分な能力が与えられています
またある人には、計算能力はないけど足がある、手がある。
そしてある人には、人を思いやる気持ちがある。など、色々な能力(タラント)があたえられています。

聖書には随所に「働く」が書かれています。

人は働く事が決められました
余談ですが、アダムとエバがエデンの園を追放された時から
人は額にあせして仕事をしなくてはならなくなりました。

働くことは神様に喜ばれることでもあります。
もっとも仕事の内容によっては駄目な場合もあります(笑)
それ以外でしたら、人はどんな仕事でもいいのです
ただ、仕事に対してとにかく一生懸命やること
世の中では結果が求められることが多いのですが、
聖書にはその過程が大切だと説いています。

例えば、テサロニケ人への手紙第1では(516節)

いつも喜んでいなさい。とあります

もし私たちが経営者だったとして、従業員を雇います。
もちろんその人の売上を評価して、それに見合う給料を支払います。
複数の従業員が居たとして、みんな同じだけの売上(結果)を出したとします。
その時の働く態度が、喜々として働いている人とふてくされて働いている人
結果は同じでも評価は前者の方ではないでしょうか
更に今後事業が発展した時
大きな事を任せる時に、経営者のあなたはどう考えるでしょう。

経営者の立場である神様は
結果はどうであれ喜んで仕事をしている人、サボらずにこつこつやる人
そのような人をもちいて、更に大きな事をお与えになるのです。

さて、福音書にはもうひとりのしもべがいました。
1タラントを預かった人です。
この人は事業が失敗するのを恐れて、預かった物を大事に隠しておきました。
主人が帰ってきた時そのままお返ししたのです。
すると主人は「なぜそれを銀行に預けなかったのか」と言います
預けていたら利子がついたのですね!

これらは仕事に限ったことではありません。
例えば勉強や家事にも同じことが当てはまります
いつでも喜んで勉強して、絶えず祈りながら掃除をして
すべての事に感謝できたのなら、それはなんと素敵な生き方ではないでしょうか?
与えられたタラントを活かすこと
それは神様が「よくやった、忠実なしもべよ」と喜ばれることです。


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2020年1月1日水曜日

「キリストの贈り物」マタイによる福音書2章19節~23節

奨励「キリストの贈り物」

マタイによる福音書219節~23

12月1日から、クリスマスに向けてのお話が続きました。
「幼子キリスト生まれる」8日「野原の羊飼い」15日「博士たちの訪問」
そして12月22日「キリストの贈り物」です。

ユダヤ人の王様ヘロデさんはユダヤ人じゃなかったのです
いわば雇われ王様?
そこに突然現れた東の国の博士たちが
「ユダヤ人の王様はどこに生まれますか?」
と聞いたものだから心中穏やかじゃありません。

馬小屋に生まれたイエス様のお話はみなさんご存知の通りです。
小さな村の飼い葉桶のなかで、赤ちゃんイエス様は生まれました。

「キリストの贈り物」

イエス様のプレゼントってなんでしょう?

クリスマスには様々なプレゼントが飛び交いますね(^^)
ケーキやローストチキン 指輪やシャンパン!
プレーステーション?(笑)

イエス様がこの世に生まれたのには、理由がありました。

最後に十字架にかけられ処刑されるためでした。
なぜ?それは、私達の罪のために処刑されたのです。

もし私達が罪のままでこの世を終わらせたらどうなるでしょう

聖書には永遠に燃え続ける火の中に投げ込まれると書いてあります
でもイエス様が私達の身代わりになって、十字架で苦しんだこと
それを信じるのなら、私達の罪は許されるのです。
そしてイエス様は処刑されて後、3日めによみがえったこと
神の子キリストだということを信じるのなら
私達の罪は許されて、永遠の生命に与ることが出来ます。

ちょっと端折りますが、マタイによる福音書の5章に
「心の貧しい人は幸いです。悲しむ者は幸いです。」と書いてあります
辛くて悲しい時は、イエス様の事を信じることで終わる。

その始まりがクリスマスなのですね(^^)



聖書には、そんなイエス様のお話がたくさん乗ってます。
教会では、そのお話をわかりやすく教えてくれます。
あなたには、きっと幸せが訪れますように。
心をこめて「メリークリスマス」(^^)

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岐阜神愛キリスト教会では
毎週日曜日
午前10時30分~聖日礼拝
毎月第2・第4日曜日
午前9時50分~こどものための聖書学校
が行われています。
501-6002
岐阜県 羽島郡岐南町 三宅2-121
058-245-0361
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2019年12月20日金曜日

「博士たちの訪問」マタイによる福音書2章1節〜4節

今日のお話

今日はマタイによる福音書からクリスマスに向けてのお話です。
イエス様がお生まれになったのは、
ヘロデがユダヤ人の王として、国を治めていた時です。

このヘロデ王という人、ちょっと問題ありですが
今日は東の国からやってきた、星の博士たちのお話です。
物語では、黄金、乳香、没薬をもって
幼子キリストに出会った3人の博士たち
星を頼りに、遠い東の国からラクダに乗ったイメージがありますが
どうやらちょっと違うみたいです。

3人の博士?

博士たちが旅立ってイエス様に会うまでは、
2年ほどの歳月がかかっている様です。
さらに博士3人だけとは特に聖書には書いてなく
実際にはキャラバンの様な大人数だったかも知れません。

いずれ星を頼りにやってきた博士たちは
最初にヘロデ王に会うのです
「新しくお生まれになった王はどこですか?」と問う博士たちに
このままでは自分の王位があやうくなってしまうヘロデ王
命を狙われる幼子のイエス様

ロマンチックなクリスマスは物語の世界
実際はたいへんなお話があったのですね!
詳しくはビデオをご覧になってください。

そしていよいよ次週はクライマックス!
クリスマス礼拝です
ぜひお近くの教会で本当のクリスマスに出会ってください。



ラマで声がする。
泣き、そして嘆き叫ぶ声。
ラケルがその子らのために泣いている。
ラケルは慰められることを拒んだ。
子らがもういないからだ。

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