2019年11月30日土曜日

12月1日の礼拝は「幼子キリスト生まれる」

奨励「幼子キリスト生まれる」

ルカによる福音書21節~7

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
これは、クレニオがシリアの総督であったとっきの最初の住民登録であった。
それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。

ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
身重になっているいいなずけの妻マリアもいっしょに登録するためであった。

ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。
それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

クリスマスに向けた聖書のお話が始まりますね!


小学生に「クリスマスってなに?」と聞くと
「ケーキを食べる日」や「プレゼントをもらう日」
さらには「サンタクロースってほんとうに居るの?」なんて聞かれます(笑)
彼らに「クリスマスはイエスキリストの誕生日」
と教えると一様に目を丸くします。
それほど商業化したクリスマスなのですね!

大人はどうでしょう
洒落たレストランで「メリークリスマス」とシャンパンを傾けるカップル(^^)
ピエロの鼻をつけた繁華街のお父さん、アルバイトのサンタクロース。
少しだけ本当の意味も知ってほしいですね(笑)

当教会だけでなく、どの教会もクリスマスのお祝いをする事でしょう
すべての教会がきっとあなたを待ってます。
お近くの教会へお越しになる事を、心からお薦めします。

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岐阜神愛キリスト教会では
毎週日曜日
午前10時30分~聖日礼拝
毎月第2・第4日曜日
午前9時50分~こどものための聖書学校
が行われています。
501-6002
岐阜県 羽島郡岐南町 三宅2-121
058-245-0361

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2019年11月29日金曜日

「神を愛する人」ルカによる福音書16章19節~26節

奨励「神を愛する人」

今日は「ある金持ちとラザロ」の聖書から
「神を愛する人」というテーマでのお話でした。

ルカによる福音書1619節には二人の人が出てきます。
一人は、ある金持ち。
どれほどの金持ちかと言うと、紫色の着物を着て働く必要もないほどの人です。

もうひとりは、その金持ちの家の前で乞食をしていたラザロです
とても貧しい生活をしていました。

ある時二人とも亡くなって、金持ちは地獄で苦しんでいました。
生前彼は、死んだ後の事など考えてもいません
今ある生活に満足し、自分の楽しみの事だけ考えていましたので
家の外で貧しい生活をしていたラザロの事なんか、気にもしていませんでした。

ふと見上げると、天国にラザロが見えます。
しかも神様のところで幸せそうにしています。
金持ちは叫びました
「父アブラハムさま、ラザロをよこして水を私に飲ませてください」
その願いはあえなく退けられます。
「でしたら、ラザロを私の兄弟のところに遣わして、地獄に来ないように伝えて下さい」
その願いも聞き入れられませんでした。

という聖書のお話です。
さて、お金持ちはどうして地獄だったのでしょう。
彼は生前悪いことはしませんでしたが、実は良いこともしなかったのです。
良い事とわかっていてそれをしないのは罪だ。と聖書には書いてあります。

では、ラザロはなぜ天国に入れたのでしょう。
これは、聖書には書いてないのですが
彼は自分の置かれた立場につぶやく事をしなかった
ありのままに人生を受け入れ、心の中で神を求めていたのでしょう。

ラザロは従順に生きた
金持ちは自己中心に生きた
死んで地獄に行ってもなおもラザロに対し自分中心でした。

驚くべき事に、そのような金持ちに対し神は
25節で「子よ。思い出してみなさい。」と語りかけます
神はこの後に及んで罪深い彼に「我が子よ」と語りかけているのです。
愛情を注いでいるのですが
その事に彼が気付いているかどうかは分かりません。

1コリント83節に
「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られている。」とあります。
もうすでに知られている。過去形になっているのですね!
ヨハネによる福音書1516節には
「あなたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだのだ。」とあります
なんとありがたい事ではないでしょうか。

神を愛する事ができる人。私たちは、嬉しい事に神に知られ、選ばれていたのですね。

感謝とともに、主を賛美します^^



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2019年11月20日水曜日

「神は人を愛する」ヨハネによる福音書3章16節

今日のメッセージは「神は人を愛する」をテーマに語られました。

「愛する」聖書に書かれているこの言葉は、
世の中の人が使ってる「愛する」とちょっと違います。

ヨハネによる福音書316

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」
この1節は、聖書を代表する節であり、
福音の本質であると言っても過言ではありません。
神は、世を愛されました。どの様に愛されたのでしょう。
それは、大切な大切な人々が、罪に滅びる事なく、幸せになる事を望んでいるのです。
その為、神はそのひとり子を、私たちの罪の為の生贄として、
犠牲になる事を辞さなかった。

どういう事でしょうか

十字架の意味はご承知の事と思いますが
イエスキリストは私たちの罪の赦しの為、犠牲になりました。
それは、神がご自身の御子がはりつけになる事を、認めたのです。
私たちの罪の為、我が子が罪をかぶった。
そんな事を許されるまで、神は私たちの事を愛してくださっているのです。

十字架で流された血を、自分のものとして受け入れるのなら
それを信じるのなら、私たちの罪はすでに許されているのです。

では、十字架を信じないものはどうなるのでしょう
聖書には「すでに裁かれている」と書いてあります

19節に、神の裁きはこうであると書いてあります。

「光が世に来ているのに、人々は光よりやみを愛した。
その行いが悪かったからである。
悪い事をする者は光を憎み、
その行いが明るみに出される事を恐れて、光のほうに来ない。」
ここで気をつけたいのは、「悪い事をする者は光を憎み」とあるところです。
光を憎む(キリストを憎む)とまで書いてあります。
私たちは全て罪を犯します。
聖書には、はっきり「義人はいない」と書いてある様に、みんな罪人なのです。

ただその罪の中に居続け、悔い改めないと、いずれは光を憎む様になってしまう
罪に飲み込まれてしまいます
さらにそこから抜け出すのは容易な事ではありません。
できるだけ早く、罪から抜け出すために、
キリストの十字架を見上げる必要があるのです。

ヨハネによる福音書3章21節に
「真理を行う者は、光のほうに来る」とあります。
神の前に出られる人は、そこで慰めを受ける事ができます。
私たちは不完全なものであると、神の前にさらけだせますか?
私は罪人であると認める事
そこからキリストを見上げようではありませんか。




2019年11月16日土曜日

次回のメッセージは、ヨハネによる福音書3章16節〜21節です。

奨励「神は人を愛する」

ヨハネによる福音書3章16節〜21節

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、
世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。
信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

そのさばきというのは、こうである。
光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。
その行いが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、
その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。
その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

「人々は光よりもやみを愛した」
ちょっと考えちゃいます
幼い頃は、正しいことが良い事だったはずなのに
正義の味方がかっこよかったのに
いつの頃からか、ワルがかっこ良くなってしまいました。
明日はどんなお話が聞けるのでしょうか
楽しみですね^^


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2019年11月14日木曜日

「愛は寛容です」マタイによる福音書 5章21節~26節

1110日聖日礼拝

「愛は寛容です」

マタイによる福音書 521節~26

今日は「愛は寛容です」から「罪の赦し」についてお話ししたいと思います。
テレビや新聞では連日のように悲しい事件が起こっています
パワハラやセクハラ、いじめや自殺
親が子どもを虐待して、挙げ句の果てに殺してしまったり、本当に呆れるばかりの事件が次々起こっています。

ある人は「殺す気は無かった」などと言います

いじめでもそうですが、そこまで追い込んでしまったのなら、それは殺人です。
このような事柄の原因は「怒り」などすべて悪い心から起こってきます。
そのような心をコントロールする事
英語では「アングリーマネージメント」などが必要になってきます。

マタイによる福音書 521節では
昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺すものは裁きを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
と始まります。
イエス様はモーセの十戒の事をお話ししています。
モーセの十戒では、人を殺したら、裁判にかけられ死刑を宣告されます。その事はみなさんよく知ってますよね?
「しかし!」とイエス様は続けます。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでも裁きを受けなければなりません。
兄弟に向かって「怒り」の感情(心)を持つ者は、十戒に書いてあるような裁きを受け、ついには死刑を宣告される。
能無しと言う者は最高議会に引き渡され、ばかものと言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
どうです?非常に厳しい言葉では無いでしょうか。

礼拝に参加して、「ハレルヤ!」と叫ぶ前に
もし誰かに恨まれている事を思い出したら、まず行って和解しなさい
そうしないと、彼はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、ついには牢屋に入れられる。
とおっしゃっています。

罪とはなんでしょうか。

殺人は罪です、非常に大きな罪です。
では、お母さんの財布から、こっそり100円玉を抜き出して、
算数のノートを買いました。喉が渇いてたのでポカリを買いました。
理由を言えばお母さんは許してくれるかもしれない。
でもこっそり抜き出したのは「罪」です。
もしこっそりがばれなければ、その罪が一生涯つきまとうのです。
あの時盗んだ、あの時嘘をついた、あの時殺した。

もう一箇所聖書から
ルカによる福音書737節~(ここは要約しますので、聖書を開いてみてください。)
ある罪深い女の人が、泣きながらイエス様の足を洗い香油を塗りました。
それを見ていたパリサイ人が眉をしかめました。
イエス様は弟子のペテロにこう尋ねます。
ある金貸しから50デナリを借りた人と、500デナリを借りた人がいました
ところが2人とも返す事が出来なくなってしまいました。
その金貸は、2人の負債を許してやりました。
たくさん感謝するのはどちらの人だと思いますか?
ペテロは、多く許された方です。と答えます。

返せなかった人たち、許された人たち。
彼らは、金貸しに何も言わずに許されたわけでは無いですよね!当たり前です(笑)
「すいません!どうしても都合がつかず、必ず返しますからもう少し待ってください」
時々私たちも、社会で言うかもしれないセリフです「すみません!」「申し訳ございません!」
営業の方たちは、「謝るのが仕事」なんて聞いた事があります。

そういった時のお客様や取引先の赦し、金貸しの赦し。
赦していただいた時の感謝の気持ちは、そのような立場の方でなくても理解できるでしょう。
では、イエス様の赦しとはなんでしょう。
十字架による死刑の赦し、イエス様はあなたの罪を赦すため、私の罪を赦すため
茨の冠をかぶり、御顔に血を流し脇腹を刺され手足を釘で打ち付けられた、その赦しがあるのです。
それほどまで主は私たちを愛してくださる。
主は私たちを「寛容」という言葉で包んで下さっています。

悩む人、悲しい人、罪の中にある人はイエス様の十字架を見上げてください

主は必ずあなたを赦してくださいます。
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2019年11月9日土曜日

明日のメッセージはマタイによる福音書5章21節~26節からです。

奨励「愛は寛容です」


昔の人々に、
『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』
と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。
兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。
兄弟に向かって『能なし』と言うようなものは、最高議会に引き渡されます。
また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、
もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、
出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。
それから、来て、その供え物をささげなさい。

あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。
そうでないと、告訴する者は、
あなたを裁判官に引き渡し、
裁判官は下役に引き渡して、
あなたはついに牢に入れられることになります。

まことに、あなたに告げます。
あなたは最後の一コランドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

明日のメッセージはここから始まります。
主の教えの大前提は「互いに愛し合いなさい」です。
もし兄弟の間に愛があるのなら、腹も立てず能無しとも言わないでしょう
告訴するものとの間に愛があったなら裁判には至らないでしょう
「寛容」の意味も調べてみました
心が広くて、よく人の言動を受け入れること。
他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。

私的なことになりますが、最近ちょっと忙しくて
ブログの更新も滞ってました。。。
何卒寛容に取り計らって頂けると幸いです(^^;)

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2019年11月8日金曜日

「キリストの慰め」ルカによる福音書 7章11節~17節

今日のお話はルカによる福音書711節~17節より、

「キリストの慰め」についてお話します。

イエス様がナインという街にはいったところ、お葬式の列に出会いました。
先にご主人を亡くされた婦人が息子と二人で生活していたのですが
その息子も亡くなってしまいました。
とても切ない悲しいお話です、近所の人たちも同情して一緒になって泣いていました。
あまりにも悲しい出来事にイエス様は婦人に言います
「泣かなくても良い」

聖書の箇所が違うのですがマタイによる福音書54節にこの様な事が書いてあります。

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

なぜ悲しむ人が幸いなのでしょうか?
どの様に慰められるのかの具体例が、今日の聖書のお話です。

ご主人と一人息子を喪った御婦人の悲しみはどのくらいでしょう
もしわたしがその場に居たとして、その人を慰められるでしょうか
せいぜい「お悔やみ申し上げます」とか「お気を落とさずに」などと
そんな気休めにもならない言葉しか出ません。

ところがイエス様は「泣かなくても良い」「悲しむものは幸いです」と言う
まるで人の気持ちを逆なでしてもおかしくないような言葉です。
根拠はなんだと問い詰めたくなりませんか?

根拠はこうです

「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」そう言うと青年が生き返ったのです
息子を亡くしたあなたは泣かなくても良い。(なぜなら)彼を生き返らせるから。
これがイエス様の慰め方なのです。
ですから、悲しむ人は幸いなのです。(なぜなら)キリストが慰めて下さる。

今は、悲しむものは幸いじゃない状態です
でも、後から慰めを受けるという約束です
キリストを信じるものは、その結果慰めを受ける
今そうなるか、時間がたってからそうなるのかはわかりません
でも、それを信じるとき、慰めはられるのは約束されるのです
それがなければ諦めの人生しかないです

どこに望みを置くのか
キリストの他に救い(慰め)はないと聖書は語っています。



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2019年11月2日土曜日

明日のメッセージはルカによる福音書7章11節〜17節

「キリストの慰め」ルカによる福音書7章11節〜17節

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。
弟子たちと大勢の人の群れがいっしょに行った。
イエスが町の門に近づかれると、
やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。

町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。

そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、
「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。
すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、
イエスは彼を母親に返された。

人々は恐れを抱き、
「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、
「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神をあがめた。
イエスについてこの話がユダヤ全土と周りの地方一帯に広まった。

やもめとなった母親のひとり息子が死んだ。
その葬儀の列を見たイエス様はその母親を見てかわいそうに思った。
「やもめ」とはご主人を亡くされた方をいいます
その一人息子が死んでしまいました。
悲しいお話ですが、その亡くなった一人息子を返されたお母さん
驚きというか喜びはどんなものだったのでしょうか!

聖書は「返された」と書いてあります

命は人が生まれる時に与えられたもの
ですので、死ぬことは命の権利と言いましょうか
神のもとに戻されるもの
なのかな~(笑)

答えはメッセージの中でしょうか

まさに「来なさい。そうすればわかるでしょう。」ですね(^^)

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「来なさい。そうすればわかります。」

今日はヨハネによる福音書135節~42節のお話です。

イエス様の下に弟子たちが集まってくる、とても大切な一場面
登場人物はイエス様の他に四人です

まず洗礼者ヨハネですが、あなたは誰ですか?と聞かれた時に
「私は、預言者イザヤが言ったように
『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」と答えた方です。
めちゃめちゃかっこいいです
「荒野で叫んでいる者」ではなく、その声ですからね!
もはや人間との概念を超えています。

そのヨハネの弟子が二人
一人はシモン・ペテロの兄弟アンデレ
もう一人の名前は出てきません
ここでは伏せましょう 是非動画のメッセージから読み取って下さい。



それと最後にアンデレの兄弟シモン・ペテロが出てきます。
このシモン・ペテロはイエス様の弟子の中で中心的人物です
ヨハネによる福音書の著者はイエスの弟子のヨハネ
彼は最年少の弟子で、イエス様にとても可愛がられていたそうです。

話は戻りますが、洗礼者ヨハネの弟子たちがイエス様の所に行き
どこにお泊まりですか?と訪ねます
するとイエス様は「来なさい。そうすればわかります。」と言いました。

二人はヨハネの弟子
師に何を学んでいたのか
更にイエス様の所に何を求めて行ったのか
その答えが「来なさい。そうすればわかります。」の言葉に要約されます

この言葉は、選ばれた弟子だけに向けられた言葉でしょうか
実は、私たちにも向けられた言葉なのです。
なにかに困った時、壁にあたった時、どうしよう!となります
その時イエス様は私たちにこう言っています
「来なさい。そうすればわかります。」
なんと簡単なことじゃないですか!
イエス様は先週もおっしゃいました
「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」
その言葉を信じること・・・実はそれが大変難しい事でもありますね
らくだが針の穴を通るくらい難しいとイエス様も言ってます

だからこそ、私にもあなたにもイエス様は語っておられます
「来なさい。そうすればわかります。」
涙をもって種をまく者は、喜びの声をもって刈り取る。
と聖書に書いてあります
あなたが辛い時、悲しい時、悩んでいる時
それでも信じて前に進むなら、喜びの声をもって収穫できると神様が約束してくれています。

お手元に聖書があったら開いてみて下さい。
お近くに教会があったら訪ねてみてみて下さい。

必ずイエス様に出会えると信じて祈っています。

 ブログを引っ越しました。 https://ameblo.jp/gifu-shin-ai-church/