ルカによる福音書5章の4節~7節、ペテロの魚獲りの話です。
もう何度読み返したでしょうか、でも私の場合はずっと棒読みだったのですね。
今日はもう一度あらためてこの箇所を学びたいと思います。
場所はゲネサレ湖という大きなみずうみ
岸辺に立っておられるイエス様に、その話を聞こうと群衆が押し寄せてきました。
ふと目をやると、小舟が2そうありました。
ちょうど漁師たちが沖から帰ってきて、網の手入れをしていましたので
船の持ち主(シモン)に頼んで陸から少し漕ぎ出してもらい、そこで座って教えていました。
一通り話が済むと、イエス様はシモンに
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい」と言われました。
シモンは根っからの漁師でしたが、昨夜はちっとも漁にならなかったのです
そこで「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。でもおことば通り、網をおろしてみましょう」
そしてその通りにすると、網が破けそうになる程たくさん魚が取れ、1そうではとても上がりそうに無いので、仲間の船を呼んで助けてもらいましたが、もう2そうとも沈みそうになる程でした。
8節 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足元にひれ伏して「主よ。私のようなものから離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました。
さて、シモンはこの時イエス様の弟子だったのでしょうか
イエス様に背を向けて自分の仕事をしていたのですから、それほどイエス様に興味はなかったのかも知れません。
でもイエス様を先生と見ているからこそ、網の繕いも途中で船に乗せたのでしょう。
もしかしたら、イエス様が船の上で教えてる最中も
網の手入れをしてたのかもしれません。
そんな夜通し働いていたプロの漁師に、
魚獲りでは素人のイエス様が、「もう一度網を入れて魚を取りなさい」と言うのです。
あなたのゴタクに付き合って船に乗せ、やっと手入れが終わった網をまた使わせるのか!
魚なんていやしないんだ。心の中でそう思ったかどうか知れませんが、明らかに面白く無い態度だったらしいです。
渋々随うと、なんといまにも網が破けるほどの大漁に見舞われます。
驚いたペテロは、今まで「先生」と呼んでいたのが「主よ」と呼び方が変わります。
先生とは、学校の先生や、習字の先生、お茶やお花の先生と一緒です。
「主よ」とは、「神よ!」ぐらいの勢いですね、自分の間違い、失礼な態度全てが逆転してしまった瞬間です。
まさにこの時シモン・ペテロは本当の意味でイエス様の弟子になるのですね。
恥ずかしいことですが、私も以前そういう失敗がありました。
池袋の駅前で、太鼓やタンバリンを持って伝道していた時のことです。
ある寒い、吹きっさらしの晩に、仲間と伝道にでかけたのですが
「こんな寒い日に話を聞くわけが無い!でるだけ無駄」と
口では言えませんがそう思いました。
でも仲間や牧師先生の手前、嚙み殺して伝道したのです。
するとどうでしょう、今まで見たことも無い大勢の人が集まったのです。
そんな自分が情けないというか、恥ずかしくてたまりませんでした。
みなさん、奇跡とはこう言う事なのです。
常識ではありえない、非常識な事が起きてしまうのです。
今の世の中を見てみると
本当に大変な世の中になって、仕事がなくて
これからどうやって生きていくのか、まったく見えない人ばかりです。
みんな大変な思いをして、夜通し働いてるのに、まったく魚が獲れないのです。
そして私たちは、明日は捕れるかもしれない魚のために、網をなおさなきゃ無い
そんな時こそイエスに背を向けたままではいけないのです。
「イエスに従ってこそ」
もう漁の時間をとっくに過ぎているのに、いるはずの無い魚が大量に捕れる
通常なら破れてしまいそうな網や、さらに仲間の船さえ沈みそうになるが持ちこたえる。
今奇跡が、あなたに起ころうとしているのです。
詩篇62:5
ほむべきかな 日々、私たちの為に重荷を になわれる主
私たちの救いであられる 神。
いまこそ私たちは主に向かい、主に叫び求めようではありませんか。
主に信頼し、主に依り頼み
神の力の可能性を待ち望みましょうではありませんか。
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岐阜神愛キリスト教会では
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