今日のメッセージは「神は人を愛する」をテーマに語られました。
「愛する」聖書に書かれているこの言葉は、
世の中の人が使ってる「愛する」とちょっと違います。
ヨハネによる福音書3章16節
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」
この1節は、聖書を代表する節であり、
福音の本質であると言っても過言ではありません。
神は、世を愛されました。どの様に愛されたのでしょう。
それは、大切な大切な人々が、罪に滅びる事なく、幸せになる事を望んでいるのです。
その為、神はそのひとり子を、私たちの罪の為の生贄として、
犠牲になる事を辞さなかった。
どういう事でしょうか
十字架の意味はご承知の事と思いますが
イエスキリストは私たちの罪の赦しの為、犠牲になりました。
それは、神がご自身の御子がはりつけになる事を、認めたのです。
私たちの罪の為、我が子が罪をかぶった。
そんな事を許されるまで、神は私たちの事を愛してくださっているのです。
十字架で流された血を、自分のものとして受け入れるのなら
それを信じるのなら、私たちの罪はすでに許されているのです。
では、十字架を信じないものはどうなるのでしょう
聖書には「すでに裁かれている」と書いてあります。
19節に、神の裁きはこうであると書いてあります。
「光が世に来ているのに、人々は光よりやみを愛した。
その行いが悪かったからである。
悪い事をする者は光を憎み、
その行いが明るみに出される事を恐れて、光のほうに来ない。」
ここで気をつけたいのは、「悪い事をする者は光を憎み」とあるところです。
光を憎む(キリストを憎む)とまで書いてあります。
私たちは全て罪を犯します。
聖書には、はっきり「義人はいない」と書いてある様に、みんな罪人なのです。
ただその罪の中に居続け、悔い改めないと、いずれは光を憎む様になってしまう
罪に飲み込まれてしまいます
さらにそこから抜け出すのは容易な事ではありません。
できるだけ早く、罪から抜け出すために、
キリストの十字架を見上げる必要があるのです。
ヨハネによる福音書3章21節に
「真理を行う者は、光のほうに来る」とあります。
神の前に出られる人は、そこで慰めを受ける事ができます。
私たちは不完全なものであると、神の前にさらけだせますか?
私は罪人であると認める事
そこからキリストを見上げようではありませんか。
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