奨励:わたしのところに来なさい
聖書:ルカによる福音書5章27節~32節
私は小説を読むのが大好きなんです。
小説というのは、筋道をつけて、読者にわかりやすく書くのが基本ですね。
でも聖書は違います。話が唐突に始まったりもします。
ー聖書ー
この後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留めて、「私について来なさい」と言われた。
さて、初対面の人から「私について来なさい」と言われてついていきますか?
どうやら、イエス様とレビは初対面ではなさそうです。
まずレビという取税人、彼は税務署の長官のようで、前に出てきたザアカイさんよりもっと地位のあった人。
さらにユダヤ人、イスラエル人の学者でものすごい熱心なキリスト者だったようです。
神学者でもあり、イエスとは入魂の間柄。と見る研究者もいます。
マタイによる福音書を書いたのも、このレビさんです。
ザアカイさんもそうなのですが、当時の取税人はずるい人ばかりだったようで
税金をごまかして、多く集めたり私服を肥やしていました。
レビさんは、そんな仕事に嫌気がさしていたようで
できることならイエス様について行きたい。まっとうな人間になりたい。と思っていたのです。
ですから、イエス様から「ついて来なさい」と言われた時
全ての財産を捨てて、立ち上がってイエス様に従いました。
「立ち上がって」と書いてありますが、これは生半可な決心ではない、断じて退かない覚悟を持ったのです。
そこでレビさんは、自分の家でイエスのための大振る舞いをしました。
街の人も大勢、貧乏人も金持ちも同僚の取税人やパリサイ人、律法学者までもが招かれました。
実はレビさんに、考えがありました。
だれでもイエス様に会えるのですよ、一緒に食事をして、話を聞いたり交わることができるのですよ。
と証明してみせたのです。まるで、教会のようですね!
神の前にはみんな罪人なんだ。と言うことを知って欲しかったのかもしれません。
ここで一役かうのが、パリサイ人。
「あなたがたはなぜ、罪人と一緒に飲み食いするのですか?」
と弟子たちにもんくをいいます、面と向かってイエス様にいうのが怖いのですね^^
と弟子たちにもんくをいいます、面と向かってイエス様にいうのが怖いのですね^^
よく見ると、彼らも同じ席に招かれていますね。一見とても正しい人のように見えますが
イエス様から見たら、他の人となんら変わらない、ただの罪人でしかないのです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 」
(ヨハネによる福音書3章16節)
全ての人は罪人だから、イエス様によって救われて、永遠の命を受けるため、
そのためにイエス様はお生まれになってくだされました。
これが真理です。
そんなパリサイ人たちにイエス様が答えます。
「医者を必要とするのは病人である」
人はみんな病人であり、罪人なんだと 本当はイエス様も気がついて欲しい
パリサイ人だけではなく、人はとかく自分が正しいという観点によって物事を見てしまいます。
「朱に交われば赤くなる」日本の教育の原点のような言葉ですね
馬鹿と付き合うと馬鹿になる。
まず自分が馬鹿じゃないという思い込みの上に成り立ってる言葉ですね。
そこが大きな間違いなのです。
学校の先生や、私たち親たちがよくやる間違い
「私がこれほど言ってるのに」「このくらいすぐやりなさい」よく言いませんか?
ついつい子どもたちを追い込んでしまい
あれが悪いこれが良くないと、自分のことは棚上げ理論です。
だれも気がついてくれない、自分のいる場所がない。
子どもたちの自殺が、そんな追い込まれた結果かもしれない
小学生の自殺なんて、誰だって死にたくないはずなのに、行く場所がないんです。
イエス様は誰を招いてるのでしょう
誰でもない、この私を招いているのではないでしょうか。
もういい加減気づけよと、お前が罪人なんだから悔い改めろよと。
マタイによる福音書11章28節
全て疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたを休ませてあげます。
必ずあなたの魂は平安を受けます。
「わたしのくびきは負いやすい」
守ることが難しい律法ではない、わたしの教えを守るのは容易い。
まず悔い改めて、神の前に祈ろうではありませんか。
**********************
岐阜神愛キリスト教会では
毎週日曜日
午前10時30分~聖日礼拝
毎月第2・第4日曜日
午前9時50分~こどものための聖書学校
**********************
0 件のコメント:
コメントを投稿