2019年9月2日月曜日

9月1日聖日礼拝、奨励「わたしは世の光です」ヨハネによる福音書9章1節~7節



今日の礼拝では、ある盲人のお話でした。

彼は、生まれつき目が見えませんでした。
イエス様に弟子たちは「彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか?この人ですか?両親ですか?」と質問しました。

因果応報という言葉があります。
すべて物事には原因があると言うことですね
弟子たちの考えも、そうだったのです。その方が納得しやすいじゃないですか!
あんなことやって、だからこうなったんだ。神様のバチが当たったんだ!
とかく悪いことに使われやすい言葉ですが、
仏教用語では、良いことにも当てはまります。善を行ったから、良いことが起こった。
いずれ「結果には要因がある」との考えです。

でもイエス様の答えは違いました。
どこにも原因はない「ただ神のわざがこの人に現れるためです」
と言ったのです。



天地を創られた神は「光あれ」と言いました
宇宙はまったくの無から、有が生じた瞬間です。

彼は、無に等しい者。その時代には、彼の存在の意味すら疑問なほど無に等しい人
その彼は、なぜそこに居たのか。それは、神のわざが現れるため。だったのです。
彼はイエス様に「私の目が見えるように」などと何も言ってません。
イエス様の事すら知らないのですね(^^)

目に泥を塗られている時、何が起こっているのか、わからなかったかも知れません。
シロアムの池に行って洗えと言われ、そうすると目が見えるようになりました。
名も無き彼はイエス様を神の子と信じて、それ以降猛然と主の証人となりました。
ユダヤ人の前に立たされた彼は、ある時イエス様に出会います。
「あなたは人の子を信じますか?」
「主よ、その方はどなたなのでしょうか?わたしがその方を信じられますように。」

信仰とは、信じるということは「なになにだから、信じる」と言うような、因果応報てきな理屈では無いのです。
無から生じることのように、まったく有り得ないことを受け入れること。
2匹の魚と5個のパンが、5,000人の食事となり、盲人が見えるようになり、立てなかった人が歩けるようになること。そして、イエス様が十字架の死から、よみがえられた事。

ヨハネ8章12節
「わたしは、世の光です。わたしに従うものは、決してやみの中をあゆむことがなく、いのちの光を持つのです。」

今日も明日も、主を見上げ、その光に導かれる生き方となりますように。



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